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一 はじめに
正直言って自分が岩倉具視の子孫であるということが知られるのは、今もってあまり好きではない。私が育った家は東京渋谷の鉢山町というところにあったが、この屋敷の中央部には先祖の霊を祭ってある「お御霊(みたま)さま」なる小部屋があって、子供のころ何か悪さをする度にこの部屋に連れ込まれては、お説教を食らうのが常であった。その部屋の神棚の上から大礼服姿のいかめしい具視が黒塗りの額に納まって、こちらを睨めおろしていた。この男はわが家では「右大臣さま」と呼ばれていたが、説教にはきまっておまえがこんなことをしでかして「右大臣さまに申し分けないと思わないか」というせりふが出てきた。説教の間中私は上目遣いにこの憎たらしい爺をちらちら見やっていた。私はこの爺さんに対しちっとも申し分けないと思わず、ただただこの腐れ縁が恨めしいと思っただけである。(写真1)
やや成長するに及んで学校で日本の歴史を教わるようになるとこの爺さんがまた登場してくる。授業が終わるときまって悪童どもが寄ってきて、岩倉具視はかなりの悪者らしいが、あれはお前のじいさんかと問い詰める。ひどいのになるとお前の父さんかという。具視はわたしにとってじいさんのまたじいさんにあたる。よく「おじい様ですか」と聞かれるがこれは悪童と同じレベルの少々歴史音痴な質問である。なぜなら具視が五十七歳で世を去ったのは明治十六年で、百二十年前の大昔のことなのであるから。
こんな次第で具視と若い頃の私との関係はあまり良好ではなく、大学に進んだおりにもどうしても日本の歴史は学ぶ気にならず、西洋の学問をやることにした。しかし年を取るに従い具視との関係は改善され、最近はあれだけ恨みに思った爺に対してある種の懐かしさを覚えるまでになったのである。
それにはあるきっかけがあった。一九九三年から四年にかけて私が在ローマ日本文化会館の館長を勤めたおり、イタリア人に日本の文化を紹介するにあたり、近代の日本を構造的に理解してもらうためには何よりも明治維新のなし遂げた大業の意義を明らかにしなければならないと思い、その多くの成果のひとつとして岩倉使節団を取りあげ、特に日伊交流の観点からこの使節団のイタリア訪問をテーマとする展覧会を企画するに至った。この時あらためて岩倉具視なる人物を識る機会に恵まれたのである。幸い手元に米欧を回覧したおりにかれの携帯した「メモ帳」なる代物があったので、まずこれを解読し、滞欧中かれの本国に送った手紙や本国から受け取った便りなどと合わせ読むにつれて次第にかれの人物像が浮かび上がり、身近に感じられるまでになった。いざ対面してみると深慮遠謀で見かけによらず繊細な感性をもち合わせているなかなか味のある男だということがわかってきた。
こうしてかつて憎たらしく私を睨めおろしていた近寄りがたい人物が、自分をもっとよく理解してもらいたがっている先祖としていささか懐かしい人間に変化したのである。歴史にしばしば登場しながら、かれほど不人気な人物も少ないようである。本格的な研究や伝記もけっして多くはない。あまりにも誤解されてきた面がある。最近具視関係の文書を読みあさるにつれて、かれはもっと理解されてよい人物であると感じ始め、むしろ同情を禁じ得ないような気持ちになってきている。かくして私はかつてあれほど嫌っていた「右大臣さま」と和解して、今ではかれの話に歓んで耳を傾ける日々を過ごしている。
そうした具視との対話の成果として「メモ帳」と「家族経営」についてまとめてみた。最近具視関係の公的・私的文書を読むにつけて、しきりに感じられることは、具視の国家計画の構想に見られる緻密な方法論が、かれの家庭経営のある種の方策にも一脈通ずるところがあるのではないかという点である。つまり具視の家庭経営もまた日本の近代化の歴史の流れの一こまとして位置付けられるのではないかということである。そうしたわけで今まであまり明らかにされなかった具視の家庭生活の周辺をご紹介することよって、今まで閉ざされていた歴史の一面に多少なりと光をあてることが可能なのではないかと思った次第である。
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